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透過された風景。そして「間接的」であるという事。

ネットを透過した記号としての新宿


直接的ではなく間接的に被写体を写す。

それは反射だったり透過だったりするのだが、どちらにせよ、本来の被写体から反射された光は何かを経由する事で、若干ではあっても暗く写ってしまう。また、この写真ではネットの色の影響で若干ではあるが青く写ってもいる。
つまりは、情報源(この場合は被写体)が持つ情報量が減る代わりに間接する媒体(フィルター)の性質が否応なく反映されてしまう事こそが”間接的”なのだ。

人々は昔から、様々なモノやコトに対して”間接的”を上手に利用してきた。何かを経由する事で対象の本質が引き出したり、新たな視点を得たり。難しい対象を簡易に扱う為の手段としても。およそ情報源となるモノは、冗長で雑多で混沌としている場合が殆どで、正しく理解する為にはそれらのノイズを適切に取り除いたり整理するなどの手間をかける必要がある。

例えば、テレビで世界情勢に関するニュースを観る場合、アナウンサーはきっと日本語で伝えるだろうが、情報源はきっと日本語ではない。現地のインタビュー映像が流れる場合でも字幕や吹き替えが施される事が殆どだ。このケースでは”翻訳”というフィルターを通す事で誰もが日本語で理解する事ができるようになった。

このように便利な”間接的”なるものであるが、我々にとって正しくその恩恵を享受する為には次の2つの条件を満たす必要がある。1つ目の条件は、おおよそであれ、情報源に対する何らかの知識なり理解がある事。そして2つ目の条件は、間接する媒体が何であるのかを知っている事だ。これらの条件を満たさなかった場合、”間接的”なるものが受け手である我々に悪影響を与えるかもしれないのだ。

にも関わらず、我々が手にするモノやコトの殆どについて、それらが実際に手にするまでにどのような媒体(フィルター)を経由したかを我々は知らないのだ。しかも、我々が知っていると思っている”媒体”についてさえ実はそれがどんな性質を持っているのかまでは知らない場合だってある。

ここまで書くと、間接的に手に入れるモノゴトの正しさを担保するのがもはや絶望的にすら感じてしまう。そこでどうするか?

”信じる”のである。

信じる事で、自分が手にしたモノゴトの正当性を評価する絶望的な作業を放棄し、評価に必要な時間や能力を節約する事ができるのだ。”信じる”という行為が時に美徳として語られる場合もあるのだが、実は単にリソースの効率化に過ぎない、、、と考えると安易に何でも信じるという事は、ただ単に横着なだけなのかもしれない。

使用カメラ:Nikon D200
使用レンズ:Voigtlander ULTRON 40mm F2 SL Aspherical

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